ある親しい愛好家さんから、愛蔵している涌泉の名品を手放したいとの相談を受けました
「えッ、まさか、これほどの名品を、二度と戻らないのに!?」と内心驚きましたが
お話を聞いてみると、やはり盆栽や鉢の蒐集への思いはひとそれぞれに微妙な違いがあって
この方の場合は、鉢と盆栽が一体になってはじめて真の満足感が味わえるというタイプなのですね
この愛好家さんはズーッと10㎝クラスのミニ盆栽をやってきました
それが最近、さらにサイズを短縮して7.0㎝クラスに挑戦するつもりになったそうで
するとこの8.6㎝という間口なので、いかに名品といえど大きすぎるので
この涌泉はさらに日の当たる場所に出ることが少なくります
私などは長い間盆栽屋としてたくさんのお客さんに接してきたのに
名鉢であればあるこそもったいなくて使わないのが愛好家さんと、決めつけていたようですが
この方は、名鉢に素晴らしい名盆栽を入れ一体で眺めて感激したい、という思いがさらに強かったようです
愛好家さんの心理の微妙さを、慣れっこになりすぎて、つい画一的に見がちであったことを反省させられました
鉢は名品になればなるほど使ってみたいという欲求が盆栽趣味の神髄でした
その欲求が自然な盆栽趣味の心ですよね
どうやら私は、惜しげなく名鉢を使うところに
盆栽趣味の醍醐味があることを忘れていたのです
商売に慣れすぎてしまって名品を商品としてのみ認識してしまっている、盆栽屋の貧しい心根
ふとしたことから盆栽趣味の原点に行き当たって、反省しきり、汗顔のいたりです
間口8.6×奥行7.3×高さ4.3cm
前置きはこのくらにいして、それでは、その涌泉の名品をゆっくり鑑賞してみましょう
まずこの箱に書かれている「霽山楼閣図外縁長方」の霽山(せいざん)とは
雨後に晴れていく山という現在進行形の意味をもった言葉です
ですから作者は、山奥の望楼で笛を奏でる人物と周辺の自然を描きながら
楼閣の下部に雨後に晴れ残る雲煙を最近景としてしっかり配しています
このあたりが名人・涌泉のさらにすごいところで、ただ技巧の赴くままに絵を描くばかりでなく
深い知識と教養に裏打ちされた真面目さと真の趣味性があります
穏和で無欲のひとであったと伝えられていますが
まさにそのひととなりも表れています
山深い崖上の楼閣で笛を奏でる人物と楼閣の下部に、まだ消え残る雲煙を近景に配し
広がる静かな山々を遠景に配した大胆な構図はさすがに雄大で名人・涌泉ならではのスケール
涌泉は自らの病を盆栽と作陶で慰めていたと云います
愛培の盆栽を入れるための鉢であったため、ボディーは奥行きもたっぷりで実用にも考慮がはらわれています
涌泉絵画の呉須の濃淡も見どころですね
魔術師的な技と云ってもいい過ぎではないでしょう
また涌泉の作品は、仕上げにあたる呉須絵にかけられた透明釉がすっきりと薄めなので
本来の筆致の繊細さがよく伝わってくるのも一つの特徴です
反対側面より
下部の最近景にまだ消えやらぬ雲煙を、さらに近景には楼閣と人物を描き
その奥に、帯状の煙雲を境にして中景からしだいに遠景へと続く雄大な景色が広がっています
構図の大胆さ奇抜さ、遠近感の演出
涌泉を絵鉢の第一人者にしているのは筆致の繊細さだけではありません
後ろ正面
春夜洛城聞笛(しゅんや らくじょうにて ふえをきく)
李白(盛唐)誰家玉笛暗飛声(たがいえの ぎょくてきぞ あんにこえをとばす)
散入春風満洛城(さんじて しゅんぷうにいりて らくじょうにみつ)
此夜曲中聞折柳(このよ きょくちゅう せつりゅうをきく)
何人不起故園情(なんびとか こえんのじょうをおこさざらん)
☆折柳-「折楊柳」という曲名。故園情-望郷の思い。
誰が吹く笛の音か、風に乗って聞こえてくる。春風に交じって洛陽のまちに広がっていく。
今夜聞こえる曲の中に「折楊柳」がある。これを聞けば、誰でも故郷を思う気持ちを起こさずにはいられない。
この漢詩から画題を構想したのか、反対に画面にふさわしい漢詩を選んだのかはわかりませんが
とにかくこのあたりにも涌泉の教養の深さと趣味性が窺えます
涌泉のボディーは、もちろんタタラによって作られた長方や正方作品もありますが
多くがこの作品のように彫り込みによって作られています
丸鉢系統の作品はロクロ引きによるものがほとんどで
手捻りによるものはごく少数です
最後になりましたが、本作品は2006年に近代出版から発行された涌泉の名品写真集に掲載されています
このように図録になっている作品っていいですね
実物は個人の所有物として人目に品触れる機会はすくなくとも
図録を通して盆栽界のたくさんの方々に識っていただけるんですからね
今日は涌泉名品鑑賞でした、ではまた
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